「絵をかく習慣」

                吉見 博

 

 

                               もう50年あまりも前のことだが井上長三郎さんの仕事場を訪ねた。大作をながめながら、絵のこと、絵を描くことについて、ずいぶん長い時間居座って一対一で話しを聞いた。 

 その時、前のテーブルの井上さんのかたわらには、小さなスケッチブックがいくつかの山になって積みあげられていて、今、描いた一冊がひょいと上にのせられて、微妙なバランスで崩れずに置かれていて…多分G荘かどこかの安価なポケット版だったように覚えている。 

 「モノを見て描いても良いし、見なくても空想で描いても良いし…とにかく描くこと。キミは、描いているかね」 

 つねに「視ている人」としてのエカキの生きる習慣を教わったような気がする。それは、有名なボナールの手帖を例えなくとも絵を描く人にはあたり前のことだった。 

 当時の身の回りを思い起こすと、中島保彦さんも小さなスケッチブックにゴツゴツと描いていたし、大成瓢吉さんが駅の出口で立ったまま、小さなスケッチをしていたのを見かけたこともある。

 ぼくも、小さなスケッチブックに、日常の、なにげない風景や人通り、歩道に置かれたごみ袋、工事現場、電線、自転車、電車の中、プラットホーム、飲み屋や喫茶店や演奏会の人々、女、男、親子、子供などなど…を描くようになっていた。

 電車の中の人をしょっちゅう描いていた渋谷草三郎さんは、お棺の中でも胸の上に鉛筆と小スケッチブックをたづさえて旅立った。 

 今でもぼくは、外出中でも、落書きのようなメモのようなデッサンをする。もちろん、電車に乗れば、前の座席の人も描くが、小さなイメージデッサンが多くなった。 記憶だったり、想像だったり、ほとんど自動筆記のようなイメージデッサンを、どんどん、どんどん描く。それは、どこかで見た顔や風景にも見えてくる。これから見るだろう風景、記憶のまなざし。自分の想像で描いた風景にあとから出会って、旅先で懐かしい思いをしたこともある。

 何が出てくるのかを、期待して楽しんでいるようなところもあって…それらが、ある年月をかけて濾過されたイメージとして、どこからか降りてくるように手の先に生まれ出てくる。その中の100分の1枚か2枚が、ようやく制作の手がかりになってくる